豊臣秀吉の奥州仕置と貝山氏:貝山のルーツを求めて
2019.1.7
総合政策学部教授 貝山 道博
「仙台の貝山はいつから?」答えは、「慶長3年(1598年)に伊達政宗に貝山一族3世代が召し抱えられたことから」ということ。それまでは今の福島県の三春町に住んでいた。故あって、ここから宮城県の岩出山に移り、伊達政宗に従い仙台に来たということのようだ
三春町歴史民俗資料館提供資料「貝山の歩み」によれば、もともとは三春を領していた田村氏の家臣で、天正年中(1573~91年)田村常盤郷貝山城に居住していたとのことである。当時の資料『片倉文書』「田村氏宿老外連名」によれば、「貝山三郎右衛門、与力5騎、鉄砲5丁」と書いてあるそうだ。自ら率いる郎党?足軽に、それぞれ勢を率いた騎馬武士5人が与力する。5丁の鉄砲を持つ足軽を護る槍隊、弾運び人足を考慮すれば、それなりの人数の小隊を編成していたと思われる。貝山城そのものは、120メートル四方、高さ30メートルの小さな館にすぎないが、田村48館の一つである。
天正17年(1589年)伊達政宗の会津攻めに呼応して、相馬?岩城?佐竹連合軍が伊達に味方する三春の領主田村宗顕を攻めた。この時の貝山城主であった貝山貞信(藤兵衛や三郎右衛門と同一人物?)は抜擢され、嫡子盛綱とともに貝山城に入り、これを守りつづけた。やがて、会津を制した伊達勢が続々田村領入りするに及んで、連合軍はそれぞれ本国に引き上げていった。これでやれやれと思いきや、もっと大変な災難がやってきた。豊臣秀吉の奥州仕置である。
田村宗顕は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原城攻めに加わらなかったため、所領を没収された。いわゆる奥州仕置である。ちなみに、田村領については、伊達政宗の家臣片倉小十郎景綱に領地状が与えられ、指出しが行われた、と『角川地名大辞典福島県』の「田村郡三春町三春城下」のところに書いてある。田村宗顕は伊達政宗の誘いを退け、田村家臣団の主だったものが正宗に抱えられるのを見届けたのち、伊具郡金山村(今の宮城県丸森町)に蟄居したようである。
問題は貝山一族がこのときどうしたかである。この段階では、貝山氏は貝山村にとどまったと記録にある(三春町歴史民俗資料館提供の資料「貝山の歩み」より)。天正18年(1590年)以降伊達正宗に抱えられる慶長3年(1598年)までの間、使える主人がいない浪々の身であったわけだ。この間貝山一族はどのようにして生活していたのであろうか?冒頭で述べたように、結果的には伊達正宗に仕えることになった訳であるが、なぜ他の家臣団と同じ行動をとらなかったのであろうか?何れも謎である。
『仙薹叢書伊達世臣家譜』第3巻「30貝山」のところに次のような記載がある。天正年中(1573~91年)貝山三郎左衛門信全、貞信、奥州田村常盤郡貝山城に住む。貞信の子上野介元信、元信の子靭負盛綱、盛綱の子主計信廣、三春城陥落後、慶長3年(1598年)岩出山において貞山公(伊達正宗のこと)に若干の禄をたまわり仕える。
また、『仙台家臣録』第4巻(佐々久監修)「侍衆 御知行被下置御牒(49) 4貫600文より4貫206文迄」の「1貝山三郎左衛門」(貝山主計の曾孫)のところには、これを補完する次のような記述がある。貝山主計は田村のご譜代であったが、田村家断絶後、陽徳院(伊達正宗正妻愛姫、田村家から輿入れ)を頼り、当地に罷り越した。貞山様より御知行4貫326文にて御奉公仕り候のこと(1貫は10石に相当)。
一度三春町の貝山館跡を訪れたことがある。鬱蒼とした小高い山であったが、空堀を伺わせる窪地も確認できた。こんなところでどのような戦いが行われたのか知る由もない。帰りに三春歴史民俗資料館に立ち寄ったところ、職員の方から「お墓参りに来られたのですか?」と尋ねられた。三春町の貝山地区のどこかに貝山家代々の墓があり、時々墓参に訪れる人がいるとのことであった。どこの貝山さんであろうか?私と同じ思いを抱いている人がいることを知り、ホッとした気持ちになった。