時は愛なり
総合政策学部教授 三木 賢治
大学に入ったばかりの頃だったか、ラジオの深夜放送が流行っていた。御多分に漏れず、ひいきのパーソナリティーの番組を楽しみにしていたが、ある晩、読み上げられたリスナーの女子大生からの投書が忘れられない。
私は絶対に夫たるものを台所に立たせたくない。台所に立つような男を軽蔑する、という強烈な主張だった。昨今は夫婦で家事を分担するのが当たり前になったが、半世紀前には家事は女性の仕事と決めつける考え方が支配的だった。女性の地位向上のために男性も台所仕事を担うべきとの声が出始めてもいたが、彼女は異を唱えていた。
自分の時間が何よりも大切だからだ、というのである。家事よりもっと大切な仕事があるはずで、私以上に自分の大切な仕事を愛し、誇りを持ち、自分の全力をそれに傾ける人でなければついて行けない。彼女はそう述べた後、「自分の時間を奪われたくない私が、どうして、自分よりも時間を大切にする人の時間を家事のために奪うことができようか」と結んでいた。時間を有意義に使う人のために、自分の時間を捧げたいという願望とも映った。
時間が大切という点には共感したが、手ごわそうな女性だな、というのが率直な感想だった。食器の跡片付けや鰹節を削ったりする程度の手伝いはしてきただけに、台所に立つことに抵抗感はなかったから、台所仕事を時間を無駄のように言うことが奇異にさえ思えた。このような女性と結婚したら、家庭は安泰だろうが、寸秒も疎かにできずに肩が凝りそうだとも感じた。
義姉が末期がんに冒されたとき、義兄は妻のために毎朝晩、懸命に漢方薬を煎じた。漢方薬で痛みは幾分和らいだ様子だったが、命を救えはしなかつた。それでも、義兄には愛妻に時間を捧げ得た喜びがあったように感じられた。
時は金なり、ならぬ愛なりである。人を愛するということは、とどのつまりは自分の大切な時間を相手に分け与えることになるのではないか。デートをするにも、家庭を設けて寝起きを共にするにも、どこかで自分の時間を削らねばならない。そこに不満を感じていては、愛は成り立たない。男にせよ女にせよ、互いの時間を大切にするのならば、家事を分担しても苦にはなるまい。
女子大生の意見は極端だが、本質を衝いていたのかもしれないと、今になって思う。いずれにせよ、漫然と時間を浪費してきた身としては、来し方を恥じ入るばかりである。
回り道も、良し