東北戊辰戦争での庄内藩戦後処理のこと -東北戊辰戦争150周年を迎えて-
2018.06.07
総合政策学部教授 貝山 道博
先日自宅の本棚を整理しているとき、『東北の歴史と開発』(山川出版社、1973年発行)という本を発見した。いつどこで購入したか思い出せないが、その著者である高橋富雄先生(2013年ご逝去)は忘れようにも忘れられない。
先生には今から50年ほど前に私が大学1年生のとき日本史を教わった。先生の講義は藤原三代を中心とした陸奥、特に「奥六郡」(現岩手県中?南部)の古代史に関わるものであった。岩手県生まれ育ちの私に以後「岩手」を強く意識させる切掛けを与えてくれたかけがえのない先生である。
本を何気なく眺めていると、かつて訪れたことのある鶴岡市の松ヶ丘開墾場のところに面白いことが書いてあった。因みに、松ヶ丘開墾は庄内藩が戊辰戦争後藩の産業振興のために行った事業で、今は残った養蚕?製糸関連施設がある場所を中心とした一帯が国史跡に指定され、観光地となっている。
東北戊辰戦争での戦犯を罪の重い順にあげれば、会津藩、庄内藩、盛岡南部藩ということになろうか。会津藩は23万石から陸奥斗南藩(今の青森県下北地方)3万石に転封され、その後会津の人々は塗炭の苦しみを味わった。庄内藩は17万石から12万石に減封されただけで済んでいるが、それよりも奇異なのは、松ヶ丘開墾には庄内藩士3,000名がその藩士としての団結を解くことなく、刀を鍬に替えたが、純然たる武士軍団があたったことである。開墾とは言え、藩内での軍事訓練さながらの様相を呈しているように思える。
この違いはどこから来るのであろうか。高橋先生は次のように言う。「会津と並ぶ朝敵の大立者がどうしてこのような道をたどることができたのであろうか。これは、ひとしく「敗者の風土」を形成し、そこから「谷間の近代」をあゆまなければならぬ東北にあっても、かならずしも道は一様ではなかったことを知る上で、けっして等閑に付されてならないことである。」
理由はいくつかあげられる。庄内藩は東北戦争では敗者であっても、戦闘そのものにおいては勝者であった。藩内には一歩も敵を入れず、しかも藩外の各地に転戦している。この実績がものを言ったという見方がある。さらに、金がものを言ったという見方もある。庄内藩は会津、その後は磐城平への移封を予定されていたが、庄内藩重臣菅実秀の必死の撤回工作と同時に、70万両(庄内藩1年分の歳費に相当)の献金により、転封を免れた(実際の献金額は30万両ほど)。庄内藩のお抱え商人本間家の助けが大いにあったことは想像に難くない。ちなみに、金の出所がわからないけど、盛岡南部藩も23万石から白石13万石への転封を同じ手により避けることができた。
最も説得的な理由は、西郷隆盛の庄内藩への思い入れによるということであろう。酒田市内に西郷隆盛を顕彰する「南洲神社」がある(全国にある4ケ所のうちの一つ)。何故か?これを解き明かせば、庄内藩の寛大な処分の謎が解き明かせる。
庄内藩は、幕末幕府の命により江戸薩摩屋敷焼き討ちを行った。そのため、薩摩藩には庄内藩に対する遺恨があって当然であるが、薩長新政府が公表した「朝敵名簿」に当初庄内藩は載っていなかった。もちろん、庄内藩が「奥羽越列藩同盟」に加わってからは朝敵と見做された。庄内藩降伏後、庄内藩入りした西郷隆盛は戦後処理を黒田清隆に任せたが、本音は、もう戦いは決しており帰順しているのだから、庄内は旧領地にそのまま安堵させようと思っていたようである。紆余曲折を経て処分は先に述べたようなところに収まった。
何故西郷隆盛はそのような考えに持ったのか?それを知るためには、本間郡兵衛なる人に登場してもらう必要がある。この人は酒田の大商人本間家の分家の出身で、薩摩藩の家老小松帯刀が1864年に開校した洋学校「開成所」の英語教師として赴任した。あまり知られてはいないが、彼は「薩州商社草案」を起草し、日本で一番早く「株式会社」を提案した人である。薩摩藩がイギリスに人材を派遣するときにも大きく関与している。本間郡兵衛は薩摩の近代化に大きく貢献した人なのである。
こうしたことがベースにあって、西郷隆盛は黒田清隆に「羽州内とくに酒田湊は本間北曜(郡兵衛の絵師としての号)先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」(佐高信『西郷隆盛伝説』より)と言わしめたと考えられる。残念なことに、本間郡兵衛は庄内藩が降伏する直前に仇敵薩摩のスパイとして疑われ、監禁後毒殺されてしまった。
これが庄内藩処分の実相のようであるが、後日談がある。これだけでも酒田市内に「南洲神社」があることを説明できるが、さらに薩摩と庄内を関係づける話がある。1969年鹿児島市と鶴岡市は「兄弟都市の盟約」を締結している。西郷隆盛の遺徳をしのぶ心がここまで引き続いているのである。
1870年庄内藩中殿様酒井忠篤(ただずみ)は、菅実秀はじめ藩士70名余りを引き連れ、100日ほど鹿児島に滞在し、西郷隆盛ら薩摩藩士に教練を乞い、彼らと寝食を共にする付き合いをした。この体験は後日『西郷南洲遺訓』として纏められている。
ただし、西郷隆盛が引き起こした西南戦争には庄内から応援軍は派遣されなかった。西郷応援が庄内藩内で声高に叫ばれる中で、菅実秀は全力を挙げてこれを阻止した。生き残って新生日本の発展に尽くしてほしいという西郷隆盛の思いを理解していたからだと言われている。ちなみに、これに従わなかった庄内藩からの「私学校」(西郷隆盛らが設立)留学生2名は西南戦争で戦死している。
松ヶ丘開墾場は西南戦争後事実上終止符を打たれた。西南戦争に庄内藩が呼応すると見られ、官憲による反乱警戒がなされたこと、数年前に起きた「ワッパ一揆」(貧民に分配すべき種米夫食米利金を士族の開墾資金に充てたことに対する農民の不満による反乱)により、松ヶ丘開墾支出を政府が不当と判定したことへの開墾士族の反発などがその理由である。
総合政策学部教授 貝山 道博
先日自宅の本棚を整理しているとき、『東北の歴史と開発』(山川出版社、1973年発行)という本を発見した。いつどこで購入したか思い出せないが、その著者である高橋富雄先生(2013年ご逝去)は忘れようにも忘れられない。
先生には今から50年ほど前に私が大学1年生のとき日本史を教わった。先生の講義は藤原三代を中心とした陸奥、特に「奥六郡」(現岩手県中?南部)の古代史に関わるものであった。岩手県生まれ育ちの私に以後「岩手」を強く意識させる切掛けを与えてくれたかけがえのない先生である。
本を何気なく眺めていると、かつて訪れたことのある鶴岡市の松ヶ丘開墾場のところに面白いことが書いてあった。因みに、松ヶ丘開墾は庄内藩が戊辰戦争後藩の産業振興のために行った事業で、今は残った養蚕?製糸関連施設がある場所を中心とした一帯が国史跡に指定され、観光地となっている。
東北戊辰戦争での戦犯を罪の重い順にあげれば、会津藩、庄内藩、盛岡南部藩ということになろうか。会津藩は23万石から陸奥斗南藩(今の青森県下北地方)3万石に転封され、その後会津の人々は塗炭の苦しみを味わった。庄内藩は17万石から12万石に減封されただけで済んでいるが、それよりも奇異なのは、松ヶ丘開墾には庄内藩士3,000名がその藩士としての団結を解くことなく、刀を鍬に替えたが、純然たる武士軍団があたったことである。開墾とは言え、藩内での軍事訓練さながらの様相を呈しているように思える。
この違いはどこから来るのであろうか。高橋先生は次のように言う。「会津と並ぶ朝敵の大立者がどうしてこのような道をたどることができたのであろうか。これは、ひとしく「敗者の風土」を形成し、そこから「谷間の近代」をあゆまなければならぬ東北にあっても、かならずしも道は一様ではなかったことを知る上で、けっして等閑に付されてならないことである。」
理由はいくつかあげられる。庄内藩は東北戦争では敗者であっても、戦闘そのものにおいては勝者であった。藩内には一歩も敵を入れず、しかも藩外の各地に転戦している。この実績がものを言ったという見方がある。さらに、金がものを言ったという見方もある。庄内藩は会津、その後は磐城平への移封を予定されていたが、庄内藩重臣菅実秀の必死の撤回工作と同時に、70万両(庄内藩1年分の歳費に相当)の献金により、転封を免れた(実際の献金額は30万両ほど)。庄内藩のお抱え商人本間家の助けが大いにあったことは想像に難くない。ちなみに、金の出所がわからないけど、盛岡南部藩も23万石から白石13万石への転封を同じ手により避けることができた。
最も説得的な理由は、西郷隆盛の庄内藩への思い入れによるということであろう。酒田市内に西郷隆盛を顕彰する「南洲神社」がある(全国にある4ケ所のうちの一つ)。何故か?これを解き明かせば、庄内藩の寛大な処分の謎が解き明かせる。
庄内藩は、幕末幕府の命により江戸薩摩屋敷焼き討ちを行った。そのため、薩摩藩には庄内藩に対する遺恨があって当然であるが、薩長新政府が公表した「朝敵名簿」に当初庄内藩は載っていなかった。もちろん、庄内藩が「奥羽越列藩同盟」に加わってからは朝敵と見做された。庄内藩降伏後、庄内藩入りした西郷隆盛は戦後処理を黒田清隆に任せたが、本音は、もう戦いは決しており帰順しているのだから、庄内は旧領地にそのまま安堵させようと思っていたようである。紆余曲折を経て処分は先に述べたようなところに収まった。
何故西郷隆盛はそのような考えに持ったのか?それを知るためには、本間郡兵衛なる人に登場してもらう必要がある。この人は酒田の大商人本間家の分家の出身で、薩摩藩の家老小松帯刀が1864年に開校した洋学校「開成所」の英語教師として赴任した。あまり知られてはいないが、彼は「薩州商社草案」を起草し、日本で一番早く「株式会社」を提案した人である。薩摩藩がイギリスに人材を派遣するときにも大きく関与している。本間郡兵衛は薩摩の近代化に大きく貢献した人なのである。
こうしたことがベースにあって、西郷隆盛は黒田清隆に「羽州内とくに酒田湊は本間北曜(郡兵衛の絵師としての号)先生の生まれた土地だ。政府軍に勝ちに乗じた醜行があってはなりませんぞ」(佐高信『西郷隆盛伝説』より)と言わしめたと考えられる。残念なことに、本間郡兵衛は庄内藩が降伏する直前に仇敵薩摩のスパイとして疑われ、監禁後毒殺されてしまった。
これが庄内藩処分の実相のようであるが、後日談がある。これだけでも酒田市内に「南洲神社」があることを説明できるが、さらに薩摩と庄内を関係づける話がある。1969年鹿児島市と鶴岡市は「兄弟都市の盟約」を締結している。西郷隆盛の遺徳をしのぶ心がここまで引き続いているのである。
1870年庄内藩中殿様酒井忠篤(ただずみ)は、菅実秀はじめ藩士70名余りを引き連れ、100日ほど鹿児島に滞在し、西郷隆盛ら薩摩藩士に教練を乞い、彼らと寝食を共にする付き合いをした。この体験は後日『西郷南洲遺訓』として纏められている。
ただし、西郷隆盛が引き起こした西南戦争には庄内から応援軍は派遣されなかった。西郷応援が庄内藩内で声高に叫ばれる中で、菅実秀は全力を挙げてこれを阻止した。生き残って新生日本の発展に尽くしてほしいという西郷隆盛の思いを理解していたからだと言われている。ちなみに、これに従わなかった庄内藩からの「私学校」(西郷隆盛らが設立)留学生2名は西南戦争で戦死している。
松ヶ丘開墾場は西南戦争後事実上終止符を打たれた。西南戦争に庄内藩が呼応すると見られ、官憲による反乱警戒がなされたこと、数年前に起きた「ワッパ一揆」(貧民に分配すべき種米夫食米利金を士族の開墾資金に充てたことに対する農民の不満による反乱)により、松ヶ丘開墾支出を政府が不当と判定したことへの開墾士族の反発などがその理由である。